昭和44年04月05日 朝の御理解
御理解 第59節
「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておつて出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」
習うた事を覚えておると言うだけではいけん。覚えて出世をしたと言えばとこう仰つしゃるように、習うた事によつておかげを受けた時に、神も喜び氏子も喜び金光大臣も喜びということになるね。習うた事を覚えておると、まぁよりまぁ教学的だと申しますかね、理論的な事をいかにその覚えたからというて、お道の信心では出世もしなければ、おかげも受けられんのでございますから、習うた事がお徳を受ける、又はおかげを受けるという素になつておかなければなりません。
そこで合楽では習うた事といわれるのは、どういう事を教えられておるか。なかなかそういう風に問われても、なかなか突っさに答えが出来ないですねえ。今度上野さん学院に参りますその試験が先日ございました。おかげを頂いて昨日私が丁度福岡へ高橋さん所のお祭りを御用するため、出かけようとしよる所へ手紙通知が参りました。受験が合格したという通知でございました。あちらでの試験の状況というものを、いろいろ聞かせて頂きますとやはり合楽と言う所には。
先生方も皆んな関心を寄せておられるということを感じますねぇ。上野さんの例えば一言ー句というものが、非常に興味を引かれるらしいんですねぇ。「それはどういうことですか、あなたの所の親先生はそういうことを教えられるのですか、又はどういう事を教えられるのですか」といつた様な追求らしいですねぇ。そこでほんなら合楽の先生は、どういうことを教えられるのですかと、こう聞かれた時にですねぇ、どういうことでというて、この場咄嗟にあの返事は出来ない。
やはりお互いこのどういう事を習いよるのか、いつもひと口で説明の出来れる様な纒をしておかなければいけないなというて思わしてもらい、昨日先生方の親愛会の会合がございましたから、その中でそんなこと話した事でした。皆さんここでは私はこれだけは覚えておって下さいよと、合楽で信心するならこの事だけは、どうでも体得しとかないけませんよと、やつぱいうておる事があると思うんですねえ。そういうことを書かなきゃならん時に、上野さんがこんな事を書いたんですねぇ。
神術によつてそのうおかげを受けるといつた様な意味の事。そう言う様な事を書いておつたもんですから、その神術とはどう言う様な事かと、そりゃ教官それから学院長が非常にその事を追求されて終いには、しどろもどろになつて追求されて、その返事が出来なかつたと言う様な事を言うております。「神術ちゃ大体どげなこつのち、あんた自分が発言した事っちゃろ」と私言うてから言うた事でしたが、そげな事いうならあんたまるっきりこうなら催眠術かなんかごたるじゃんの。「笑い」、
神術自分としてはあのう、そのう自分の信心さして頂くようになつて自分が見えるようになつて来た。自分が改まらなきゃならんね、それにはその自分の癌を心のこれが、癌だと思う物をですね手術しなければならん。それを神様が手術して下さると言う意味を、神術という言葉を使つたら書いとつたらですね、神の術というだから私がまるきり忍術使いのごたる風な風に思いなさつたごたる風ですもん先生方が。だからそれでなくても合楽はなんかこう神がかり的なですねぇ。
言う様な事をすっとじゃなかろうか、言うのじゃなかろうか、御祈祷で助かるのじゃなかろうかと言った様な、そのそういう定評定評というか、まぁ定評じゃないですけれども、まぁそういう風に憶測されとる訳ですね。それにそのそこの修業生が神術を持つて自分はおかげを頂いたなんて言うもんだから、私が忍術使うてから上野さんが助かっとるごたる風に思うとる、そんな風な感じを私は受けたんね。又先生方もそれをそういう風に受けとめて、大体神術ちゃどう言う様な事かと言うて追求したけれど。
まぁそれを本当に説明が出来ずに、まぁ言うならしどろもどろっであつたと、こう自分で言つておりますがね。だからやぱ上野さん程の信心をしておるとだから、大体合楽の先生はこういう事を教えられますと、おかげで私はこういう改まりが出来ましたと、又改まる事に努めておりますと言えば、分かつたんですけれども中々やはりどう言う事を習うておるかという事を言われてですね。昨日もだから私先生方に色々問われたら、どう言う風に貴方方は答えますかと言うと、もう中々答えが出来んですね。
これでは金光大神は喜ばない、まぁいうならば大坪総一郎というかね、まぁ皆さんの師匠であるところのいわば私がそれではね。ですからそこん所をまぁよくはっきりして、本当にそれが自分のものになつて、おかげを受けなければならん。おかげを受けると言うてもね、そのうその教会教会のやはり、金光大神の教えを説き金光教というておるけれども、やはりそこの教会教会によつておかげの表われかたというか、教える焦点というのが違うところがある。
例えて申しますと一生懸命にお参りをするね、ようありますようまぁ本当に朝参りをした所で別に、特別有り難い御祈念があつてる風でもなからなければ、お話しがあつてる訳でもない。それでもやつぱ何十年と朝参りを続けている信者があります。その事だけでもやはりお参りの徳とでも申しましょうかねえ、そのお参りによつて非常に信念が強うなって来る。神様の事は分かつていない、いわゆる神の心は分かつていないけれども、又神の心に添うておるとは思わないけれども、只お参りだけは一生懸命しておる。
そこから生まれて来る信念、いわゆる神は信ずるものを信ずると仰せられますから、そういうそのう所から生まれて来る信念によつて、確かにおかげを受けておるね。いわゆるそれをお参り信心という訳ですね。ー所懸命お参りをするそこから不思議に、生まれて来るところの心の安心お参りしなかつたらだから安心がいかん。だからお参りをするしかも何十年も続いておられる。そこへ例えば参拝の徳というかお参りの徳というものを受けて、そこに神様がお守り下さつてある事を。
もう理屈じゃない心の中に感じて、神様を信じる力が養われて、そこからおかげを受けておるというおかげ。又は御祈念力もうそれこそー心不乱な御祈念、それこそてんでもうお広前をどしどしいわせてからもう、これでもかこれでもかと言う風にしてですね、膝をこう鳴らしてその御祈念をするような教会があるんです。四国当たりよう御本部当たりで見受けます。まぁ畳の上ならよかですばってん、奥城のあの石畳の上でですね、あぁほんなこて膝を膝ぼんさんを打ち割ってしまわっしゃるとじゃなかろうかと。
いう勢いでこうこうやつてから拝んでる所がありますです。そりゃもう人がどげん言よつたってちゃ耳入りもしまいと思いますねえ、ー心不乱ですたい。それかと思うと手ばこう上に打ち振りながら、こうこうやって何かそれこそ何かかか何かそのう狐つきじゃなかろうかという風で拝んでですね、おかげを受けたり又おかげをお取り次ぎしておるという先生もある事です。ですからおかげはね様々な形によつて現れる訳ですね、そこから信ずるものが生まれて来る。
例えばあのう福岡の初代の御祈念なんかを頂いておりますとですねぇ、後ろでお参りしておると一人ひとりをお届け帳につけられて御祈念をなさる。今でもそのう福岡ではそういう流儀が残っています。四代の奥様なんかやはりそのう福岡の御方ですから、その御流儀ですから今でも私共お参りしましょう、そすと御祈念して下さいますよね、そしてそのお届け帳をもつて御神前に出られてから「大坪総一郎でございます大坪総一郎でございます」というて、その私がお願いをしておるとですね。
私の名前を繰り返し繰り返しお唱えになつてですね、神様にお願いなさるです。だからそれを聞いて下りよるとですね、はぁ神様が私の願いを聞いて下さりよる気がするんです本当にね。「何処どこの何んなんという氏子でございます。こういう願いで参つております、どうぞおかげをやつて下さい」というてー生懸命願うておられるのを、ここで聞かせて頂きよるとですね、本当におかげを受けるおかげが受けられる、と言った様な安心が生まれますですね。
そりゃ福岡の初代の御祈念力なんかというのはもう、吉木栄蔵の右に出るものはおるまいと仰つしゃる、四神が仰つしゃつたと言う位ですから、もう大変な熱烈な御祈念力だつたらしいです。御祈念力によつて立ちどころにその病気が全快したという例が、幾らもあるくらいですから。ですからそのう御祈念力で助かると、いう様な助かり方もやつぱあるんです。ところが合楽の場合はそれのどれでもないでしょうが。昨日高橋さんの所で私、お話し聞いて貰いました中に。
先日から高橋さんが本当このあのこうやつて、御信心のおかげを頂いてー生懸命お商売の上に打ちこませて頂いておりますけれども、一向お金が残りませんと、ということに対して私は「高橋さん今どんお金が貯りよんなら大事」と私が申しました事を、まぁ言うなら中心にお話ししたんですね。何故かというとまぁある意味あいにおいて、素晴らしい物を頂いておりますけれどもです、受けものが小さいて今のは。だから今は盃ぐらいの受けもの持っとるとにー杯頂いただけではどうするですか。
やはり受けものが大きい物にならないかん。もちっと受けものがしっかりと立派に大きくならにゃいかん。そうして頂いたおかげでなからなければ、馬鹿らしいじゃないですかと。皆さんが今おかげ頂きたい、神様やんなさらんというのは、本当に神も喜び氏子も喜び金光大神も喜べる様なおかげを、頂いてほしいからおかげ下さらんのですよ。そこでほんなら結局どう言う事になるかというと、高橋さん大きくなりなさいと言う事であった。大きくなりなさい大きい受けものを作りなさい。
そのなら大きな心というのはですね、どう言う様な事かと。今朝から御心眼に私頂きますのがね、ある方がね地球儀をねこうこやつて回しよる所を頂くとです。教祖様の御教えの中に世界は我が心にありと仰せられる、本当に世界が我が心の中にあるような信心こそ、大きな信心だと思うんですけども、地球儀を撫で回したり、何処になんという国があつてどういう風な国土であると言った様な事を、覚えたっちゃなぁんにならん。それが自分の心に治まってしまわなければね。
そこでほんなら大きな信心とはどういう信心かと。私はその事を纏めさせて頂いてね、昨日高橋さんの所で、記念品に白扇を配っておられましたから、高橋さんの所にまぁ遷座のお祭りがあった記念に、私はその白扇に「天地の心」と書いて、あちらに置いて参りましたね。私は大きな「大きな心というのは、天地の心を悟り天地の心を自分のものにしていく事」だと思うんです。そこに私は世界は和賀心にありと言う様なおかげが頂けるんだと思うんです。
高橋さん立派今の信心は立派、光を放つように立派なんだけれども、それは余りにも小まい現在の信心は。そりゃ昨日私あちらへおかげ頂いてから、まぁちょっと驚きでした。というのはね、もう高橋さんのそのう小さい神経が、隅から隅まで行き届いておる事ですねえ。今度六畳ですかね小さい部屋ですけど、それに続いて十畳位になりましょうか、二部屋今度新しくでけた今まで、あそこはまぁなんか二階の何にもなかつた所にでけてるんですが、まぁあんな所にようこんな家が出来たもんだといいう位に。
もうそりゃもう完全にお神様のお部屋として出来た。ですからもう本当に御神殿造りに中が出来てる訳ですね。そりゃもう本当に見事です。お菓子の事出来とる、と言う様にその神経が細かいところに行き届いておる。とても高橋さんじゃなからなければ出来るこつちゃない、という位に神経が行き届いておるということはですね、有り難いですけれども余りにも行き届き過ぎとるから、行き届かん者のば見るとはがゆい所が出て来る訳です、自分が行き届いとるもんですから。
もう昨日あちらに参つてからその事を思わして貰いよりましたら、こん位ばつかりのー尺尺というのが昔あったですよね。ー尺尺を持つてこう持っちゃる高橋さんが、それをもうあっちこっちこうやって計って回りよんなさっとこを頂きましたんです。自分がもう尺で計ったごとやるもんじゃけんで、人がやらんとそれがやっぱ気に触る。だから自分が出来る事は有り難いけれども、これは人じゃない自分自身が出来ればいいのであるから、そう言う所をですね、やっぱ大きな豊かな心にならせて頂かなければ出来ん。
そういう素晴らしい神経を持つておられればおられるほど、大きな信心しなきゃならんから、結局は底の抜けたような馬鹿と阿呆になると言う様なことを申しましたがです。そう言う様な事でもですね、私は天地の心を心とする事だとこう思うのです。成りゆきを大事にしようということもね、信心辛抱させて頂くということもね、天地の心を分かって、そのわかるから成りゆきを大事にしなければおられんのです。繁雄さんの信心は土のような信心だと、それは見かけが例えば本当に土の御用をしてござるから。
土のような信心というのじゃない。土というものはどう言う様なものでも、ー切を黙ぁって受けると言うのが土の心である。しかも受けただけではなくてそれをいよいよ自分が豊かにね、肥えた土に自分自身がなっていくのであ。そこに良い種を例えばそこに降りると、そのその事にそれに滋養をどんどん送ってやるような、働きをするのが土の心であるね。黙つて受けてしかも黙つて与えるというのが土の心である。茂雄さんが先日ある事からですもう本当に、どうしてあげん腹ん立つやろかち。
もうぷりぷり腹かく事ばつかり腹かいてという話をしておられたから、繁雄さん申しました。もう腹かく奴は腹かかせときなさいてね。そこんところをあんたの土のような信心で黙って受けるだけでなくて、黙って与えていかなくてはならんですよ、といって申しました事です。それが土の心ですねいわゆるいうならば天地の心なのです。黙って受けて黙って与えるというのです。それが分かるから成りゆきを大切にする事が出来るんです。ですから「合楽の先生はど言う様な事を教えられるんですか」と。
「私は思いますもう合楽の先生こそ、天地の心を天地の心として、体得しておられる方だと思います。すから教えられる事はその事ばかりです」。天地の心を心としてね、天地の心を自分の心の中に頂いていけよという、その事を具体的にいうと成りゆきを大事にせよ、成りゆきを大事にせよと言った様な意味の事を、教えられていると言う風に言や、私は御本部の人達も、又或る意味合いで言う見開きと言う様に思うのです。又私が天地の心を体得しとるというわけじゃないですけれども。
その天地の心を体得しようということにー生懸命になっておる。その為に様々なこの教典の総てが、その道づけをしてくれる合楽の場合は。そういう道を踏んでおるということが安心、そういう道を踏んでおるという事から生まれて来るところの信念、それが合楽の場合はおかげの素になつておるんですよ。御祈念力でもなからなければ、御用するから信念が生まれたのでもない。ー生懸命お参りしよるからなんとはなしに信念が生まれて、おかげ頂いとるとじゃないでしょうが。
だから私昨日熊本の山浦先生に申しました、あんたの信心は素晴らしいけどね、あんたはこまい時からもうずっとー生懸命お参りをさして頂いとる。夜も昼もないごとお参りした、その事によって信念が生まれた、それであんた方の信者が助かっとる位じゃろうがと私が。だから合楽で私が言うとる事を体得したら、そこに天地の道とでも言うかね、その道が分かって道を行じて、そこから生まれて来る信念、そこから生まれて来るおかげでなければ、私しゃほんな事じゃなかろうと思うがどげんですかと。
同じ金光様の御信心頂いとっても、ただ御祈念力ということやらお参りという事やら、御用と言う事やらね、そういうことからおかげを受けるという、いわゆる信念の力というものではねいけん。おかげは和賀心にありとおかげは和らぎ喜ぶ心にありと、その和らぎ賀ぶ心の、いろんな信心から生まれて来るでしょけれども、合楽の場合は天地の心を心としての信心修業が、自ずと自分の心の中に和らぐものを喜びの心というものを頂いてね、いわゆるいうなら黙って受けて黙って与える心が育って来る事によって、有り難いなぁ自分というものは有り難い、このような普通でいうなら難しい事を黙った受けられるというだけでも有り難いけれども、それを又黙ってまた与えておる自分が、いよいよ有り難うなって来るという。そういう心におかげを受けておるのである合楽では。そこを極めていくしかもそれをいわばいよいよ大きなものにしていけと。
言う様な事をまぁ言うならば、ここで習うた事を忘れたとこう言うておられるが、ここでなら教えられておる事は、そういう事ですからそれを忘れてはです師匠が喜ばん、それを行じないでは師匠は喜ばん、それを行じておかげを受けて始めてね、神も喜び氏子も喜び金光大神も喜び。とても私神も喜びというここん所なんか、合楽の場合なんかここん所を体得していけば、神が絶対喜ばれるはずと思うんです。神の心を分かって神の心を自分の心の中に頂こうというのであるから。
私は神も喜び氏子もここでおかげを受けてくれれば、神も喜び氏子も喜び金光大神も喜びじゃと仰つしゃるこのおかげというのは、ただー生懸命にお参りすることによつて信念が生まれた。神様を信ずる力が出来た、ー生懸命御祈念をするー生懸命御用をしてね、私しやそれが神様の喜びじゃないと、ここに神も喜びと仰るのは。だからおかげを受けておつてもです、神が喜ばれるようなおかげじゃない。ここで仰つしゃるおかげというのは、本当に合楽で言っておるような信心を体得して。
おかげを受けた時に初めて神が喜ばれるんだ、金光大神が喜ばれるんだ。同時に氏子の喜び受けた私も、有り難いんだと言う事は私しゃ合楽合楽的というか、合楽でいつておるような信心が本当に身に付いて、おかげを受けた時に、初めて神も喜びということになるのではないかと言う風に思うのです。もうありゃ信念が非常に強い、もうありゃ十年も二十年もー生懸命参つて来る、そして信念が強うなっていく、まぁ有り難いこつじゃあるというて、果たして神様喜びなさるじゃろうか。
あれはもう十年もお参りして来る、そしていよいよ天地の心を心としての日常信心生活がでけていきよる、それをご覧になる時に神が喜ばれるのじゃなかろうか。まぁ例えていうなら分かりやすくいうならね、親の心が分かって親の心にそうていって、初めて親が喜ぶのですから。親が持ってる物をがむしゃらに頼んで頼んで、おかげを受けて親が喜ぶでしょうかね。それよりも親の心を分かって親の心に添うて、親の心になって親のいわば、かゆい所に手の届くような信心をさせてもろうて。
親の喜びを受けてからのおかげであつて親も喜ぶ、いわゆる神も喜ぶという事になるのでありね、それをお取り次ぎ下さる金光大神も喜んで下さるのであり、私共も有り難いということになるのではないでしょうか。私厳密にいうとどうしてもですから合楽の信心が全教的、現在の金光教の信心の中に合楽の信心が本当に分かて頂いて、本部当たりになんとはなしに色眼鏡で見られて何か合楽というのは神術的な、いうならその何というでしょうか、千里眼的な何か摩訶不思議な。
その妖術の様な物を使つて信者が酔うておるような、迷うておるようなそれが合楽のごひれいのもとになつておるのじゃなかろうかと、言う様な見方をされておる事実をですね、今度愛子さんの御本部試験に行つてから、そのその事を追求されたということから感じたんです私は。ですから例えば皆さんがですね、合楽にお参りをさして頂いてね、例えば合楽の信心というものを、どう言う風にまぁ説明が出来るかという事をです、実際に自分がそれを行じておらなければ、説明も出来ない訳ですけれどもね。
今日は私が申しました様な所をです説明するならね、誰でも合点がいくのじゃなかろうかと。そしてそういう信心こそ今の金光教の信心に欠けておるんだと気づかれてね、合楽に信心を求めてみえる人達がでけて私は、本当の道のひれいということになるんじゃなかろうかと私は、そういう願いを持つておるのである。というてそれを宣伝したからというて広がる様なこつちゃないだろうけれども、求められた時には適格に与えられる、話してあげられるという信心を体得しとかなければいけない。
そして神も喜び金光大神も喜び氏子も喜びと仰つしゃるような、本当に神様の喜んで下さるおかげをですね、打ち立てていかねばならないというふうに思うのです。どうぞ59節の習うた事を忘れてとこう、それを戻したなら合楽でどんなに有り難い事を聞いておつても、それを行じないならばもう戻しておるのと同じですから、これでは師匠は喜ばん、金光大神も喜んで下さる筈ないのですから、それをいよいよ行の上に現わして、おかげを頂いていきたいもんだと思いますね。
どうぞ。